2008年04月01日
政の父。子楚の生涯
この歴史の中でどのようなことが問題だったのか、考えてみました。
政の父、子楚(後の荘襄王)は趙の人質となっていたが、大商人呂不韋の力を借りて帰国し、秦の王になることができた。このときに子楚が呂不韋の愛人をもらい受け、この愛人が政の生母となる。
しかしその愛人は、子楚に渡されたときにはすでに身ごもっていたと言われる。つまり始皇帝の父親は子楚ではなく、呂不韋であるということになる。この話は当時かなり広く流布していた話らしく、『史記』では呂不韋列伝に事実として書かれているが、秦始皇本紀には書かれていない。司馬遷は両論併記の形をとったのであろう。『史記』秦始皇本紀所収の班固の上書とされる部分では「呂政」と書いて、はっきり始皇帝は秦の王室の血ではないと言い切っているが、これは秦王朝の正統性を否定するためという意味合いが強い。
しかし、同時代の春申君に同様の話があることなどから、事実ではないとする歴史家もある。また、子楚が後見人である呂不韋の愛人に手を出して懐妊させてしまったために、呂不韋がやむを得ず愛人を子楚に差し出したのではと見る歴史家もある。
この話が広く流布した背景には、始皇帝によって滅ぼされた六国の遺民たちの恨みがあり、始皇帝に不利な話が広まる要因になった可能性がある。
政について史記には、鼻が高く、目が長く、声はヤマイヌの如くで、恩愛の情に欠け、虎狼のように残忍な心の持ち主と記載されている。
即位
帰国した後は荘襄王を擁立した功績で、呂不韋が丞相として権力を握った。紀元前246年、父荘襄王が死に、13歳にして政が秦王となる。即位後すぐは呂不韋が実権を握り、年若い政はまだ政治は執れなかったが、弟の成きょうの謀反と実母の愛人である嫪?が起こした反乱を鎮圧し、紀元前238年には呂不韋を中央から遠ざけ、親政を始めた。
呂不韋を殺す前に呂不韋の元から李斯を得て、李斯の主導の下に法家の思想から君主独裁、郡県制、厳罰主義をいっそう推し進め、強力な独裁権を手に入れた。外征面では王翦、王賁親子や李信などを起用し、次々と他国を滅ぼした。
紀元前227年、燕の太子丹は隣国の趙が秦に滅ぼされ危機感を感じ、起死回生を図って政に対して刺客の荊軻を送りこんだ(巻物の中に剣を隠して政に近づいたとされる。殿中においては剣を抜くことは法令により禁止されていたので家臣は剣を抜けなかった)。政はあわやというところに追い詰められたが、侍医の機転により命拾いをし、荊軻を切り殺した。暗殺されかけたことに怒った政は王賁に命じ、燕を攻めて翌年に滅ぼした。
紀元前221年、六国の中で最後に残った斉を滅ぼし、中国を統一した。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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